ゲーム「ヒットマン」の素晴らしいところは?
僕は「ヒットマン」と言うゲームがすごく好きだ。
ヒットマンとは、プレイヤーは47という「暗殺者」になり、指定されたターゲットを様々な方法で暗殺するというゲームである。
プレイステーション3の時に発売された、「ヒットマン アブソリューション」をプレイして心惹かれ、
2016年にプレイステーション4で発売された「ヒットマン」でまたも心掴まれ、
毎日寝る間も惜しんでプレイした。
最近、新しく「ヒットマン2 」が発売されたので、そちらも時間ができたらプレイしようと思っている。
自由度と制限
このゲームが魅力的なのは、そのゲーム性の自由度と制限のバランスであり、そこから生まれる「?」→「!」によるカタルシスがあるからだ。
どういうことか?
まず、このゲーム、マップがめちゃくちゃ広く、また暗殺方法も多様で、暗殺者である47のアクションもかなり幅広い。
そういう意味で自由度は最高なのだ。
が、その一方で、他のキャラクターやターゲットに不審な行動をしているところを見られてはならなかったり、変装をしていないとセキュリティの高いエリアには入れなかったりと制限もある。
そんなゲームだと何が起こるかというと、「もっと簡単に暗殺できる方法ないかな?」とか、
「どうやったら、こいつにバレないように進めるかな?」といった
創造を膨らませる「?」が沢山出てくる。
そして、試行錯誤し、ターゲットの動きを観察した結果、「こうしたら簡単に暗殺できる!」とか、「これでバレずに進める!」ということが分かってくるのだ。
この「分かった時!」というのがめちゃくちゃ気持ちいい。
「?」と「!」
こうした
・創造性を生み出す「?」を引き出す制限
・生み出された「?」を「!」にできるほど広い自由度
が尽きないゲームというのは、いつまでもやっていたくなる。
「次はこういう風にやってみようかな」
というさらなる試行錯誤や、
「あそこで見つけたやつは、どう使えば良かったんだろう?」
という新たな疑問が尽きないからだ。
一方で、ただ自由度が高いだけのゲームや、ゲーム側の都合による、想像の膨らまない「制限」が多いゲームは、飽きるのも早い。
さて、そういえば、これはゲームだけの話だろうか?
いや、ゲームだけではないだろう。
想像的な「?」を生み出す制限と、制作者も気づかなかったような「!」を生み出す許容さのある「作品」や「場」を、僕らは求めて止まないのである。