好奇心の記録

「言葉」をデザインする西澤薫の、日々の気づき。

聴き続けられる、という価値

1年間も!?

 

今日、ある会社様のオフィスで打ち合わせをしている時の話。

「この流れている曲、jazzですよね?」

「そうなんです。社員の1人がCDを持ってきたので、それをいつも流しています。」

「どれくらい流しているんですか?」

「だいたい1年です」

「1年?!」

「ええ。1年流し続けてます。」

 

ちなみにその方は、jazzへの見識はほとんどない。

流れている曲の名前も知らない。

 

( ちなみに僕はというと、jazzの定番曲をあらかた聞いたからか、町でジャズが流れていると、半分くらいは分かるようになった。)

 

しかし、たとえバックミュージックだとしても、同じ曲を1年間流し続けられるものだろうか?

まさに、ここにjazzの魅力がある。

 

 

PPAPは刺激的だが飽きる

 

例えば、ピコ太郎のPPAP

あの曲は、日本でも海外でも大ブレイクした。

紅白にも出場し、まさにPPAPが社会現象になっていた。

 

一方で、PPAPをバックミュージックとして1年流し続けられるだろうか?

僕が言うには、想像するだけでも、キツい。
ヘビーローテーション起こすような曲は驚異的な中毒性とともにしばらくすると飽きがくる。

 

jazzミュージックには、そこまでの大ヒットは起こらない。

社会現象になることもない。一部の愛好家がいるくらいで、あとはカフェでよく流れているくらいだ。

逆を言えば、カフェによっては名盤jazzのCD1枚だけで、1年も2年も回し続けていたりする。

そこに極端な刺激はない代わりに、いつまでも味わえるというスルメのような魅力がある。

 

 

聴き続けられる、という価値

 

もう少し深めてみよう。

それは、音楽に限らず、あらゆるメッセージにも言えるのかもしれない、と。


例えば、僕らの言葉もその一つだ。
心にガツンと刺さるような熱のあるキャッチコピーは、一時的に影響力を発揮するにはかなり効果的である。しかし、長続きはしない。


一方で、洗練された仕草だったり、目線だったり、表情には、なぜかずっと覚えていられる、という魅力が備わる。


僕が忘れもしない、4年ほど前に受けた、大学生向けのあるイベント。

五体不満足で知られる乙武さんがスピーカーだった。

50人以上の学生が集まる中の1人でしか過ぎない僕に、講演の途中、満面の笑みで微笑んでくれたのだ。

乙武さんの話は現在は何一つ覚えていないが、その時の笑顔だけは今でも覚えている。

 

これをどのように区別しようか。

洗練された曲。洗練された笑顔。

jazzを「洗練した」という言い方をすると、それ以外の曲をバカにしているようにも聞こえるが、そもそも優劣の問題ではないと僕は考えている。

ただ、そこには「刺激的な曲」「刺激的な言葉」とは違った価値があるのだと思う。