好奇心の記録

「言葉」をデザインする西澤薫の、日々の気づき。

その時間、なんて名前?

24時間テンプレートを作る

 

自分の時間をより効果的に機能させるため、ライフハック大全という本でも紹介されている「24時間テンプレート」を作ってみた。

Waccaというアプリを使えば、簡単に24時間テンプレートが作成できるのでオススメだ。

 

さて、さっそくテンプレートを作ってみたのが、これだ。

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みなさんは見てどう思っただろうか?

僕は、「時間に対する名前がなんと平凡なんだ!」と、自分のセンスにショックを受けた。

時間は自由に出来るのに、そこにつける名前がすごく平凡でありきたりだ。


なんだ!
「睡眠」って!「仕事」って!
そんな名前など、誰でもつけられる。

 

世の中にある名前を当てはめている段階では、それは「つけられた名前」でしかない。

自分でその時間に名前をつけてあげることで、初めて所有感が生まれる。

 

時間に名前をつけてあげる。

そのことが無ければ、僕のスケジュールになりきらないだろう。

 

 

それぞれの時間を命名

 

ということで、自分で好きなようにそれぞれの時間に名前をつけてみた。

それで作ったのが、こちら。

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なんか書いているうちに名前が全部RPGみたいになった。

 

イメージとして小さなタスクは、「カエル」

ほどほどのタスクは「スライム」

結構時間のかかるものを「ドラゴン」

と名付けて、それぞれのやる時間を決めた。

 

あと、仕事が終わった後のリラックスの時間は、頭を回復させる時間として「MP回復」

睡眠の時間は、体を回復させる時間として「HP回復」と命名した。

(本当にRPGが好きだな、、)

 

 

名前をつけるメリット

 

名前をつけてあげることで既に2つのメリットを感じている。

 

一つは、最初にも紹介したように、所有感が持てること。

特に「仕事」としていた時は、「そこに仕事が入っているから」という受け身の文脈が強かったが、

「ドラゴンを倒す」とすると、途端に僕自身の意思がかなり強くなった。

これだけでも、「この時間をどう利用してやろうか」という思考が働く。


もう一つは、作る時点では予期していなかった意外な効用だ。

それは、時間の使い方に関して幅が広がったことだ。

例えば、朝の「瞑想&予定確認」に「スタートダッシュ」という名前をつけた。

一日のスタートダッシュを切れるかどうか、ここで決まると思ったからだ。

 

そうすると、この時間が瞑想と予定確認以外に「どうやったらよりよい一日のスタートダッシュが切れるかな?」という思考が働くようになった。

「予定確認をする」よりもいろんな発想が出そうである。

 

というわけで、時間に名前をつけてみるのはオススメだ。

勝手に、自由につけて構わない。

あなたの時間はあなたのものなのだから。

小さなチャレンジ

ある電話での話

 

ある方と朝に電話していた時の話。

相手「やるって決めたチャレンジを、実行できてないんですよね...」

僕「そうなんですね」

相手「ここ最近、何の変化も起こせてない気がします」

僕「・・・。小さなことでもいいので、ここ1ヶ月でどんなチャレンジや変化を起こしましたか?」

相手「うーーん。あ、妻と先月よりもよく話すようになりました。あと、今月は先月よりも20kmくらい多くランニングしてます。」

僕「してるじゃないですか!チャレンジ!」

 

 

小さなチャレンジ

 

実際、多くの方が、こうした「小さなチャレンジ」を軽視する傾向にある。

だが、これはとても重要なものだと、あらゆるところで言われている。

 

ティナ・シーリグはTEDで「小さなチャレンジ」の重要性について述べている。

 

ティナ・シーリグ: 運を良くするための少しのリスク | TED Talk Subtitles and Transcript | TED

 

「私はみんなを励まして コンフォートゾーンから出ることになるリスクをとるよう勧めます。」

「例えば 知的リスクをとり 今まで挑戦したことのない問題に 取り組んでみてと 言うかもしれません。」

「もしくは 社会的リスクをとり、電車で隣の席の人に話しかけてみるとか。

または 感情的リスクをとり、本当に大切な人に対して自分の思いを伝えてみるとか。」

 

 

認めてあげる


実は小さなチャレンジはみんなしていることもある。

だが、こうした小さなチャレンジを認めてあげようとする時、決まって自分の中の偉大な検察官がそれを許さないという反応が起きる。

「そんな小さいこと、チャレンジでも何でもない!もっと大きいことをしろ!」

と。


しかしながら、小さなチャレンジは、より大きなチャレンジをするために重要なものなのだ。

なぜなら、自己重要感を獲得することが出来るからだ。

 

大きなチャレンジをしようとする時、多くの場合勇気と自信が試される。

自信が低ければ、「やっても無理かも」と思うかもしれないが、自信が強ければやってみようと思えるかもしれない。


認めてあげることだ。

自分の小さな勇気に。

そうすれば、より大きな変化にも取り組むことが出来るようになる。

想像力が強い人は、人に優しくならざるを得ない

スタバのトイレでの話

 

恵比寿のスターバックスにいた時の話。

コーヒーを飲むと膀胱が緩くなるので、僕はいつものようにトイレに向かった。

そこのスタバのトイレは一つしかない。

トイレに先客がおり、男性が1名順番待ちをしていた。

僕は、その男性の後ろに並んだ。

 

それから3分ほど経ったが、まだトイレのドアは開かない。

自分の前に並んでいた男性は、痺れを切らしたのか、一度元いたテーブル席に帰っていった。

僕は先頭になった。

 

それから30秒もしないうちに、トイレのドアが開いた。

入っていたお客さんは僕の前を通り、先程席に戻った男性の前を横切っていった。

 

先程の男性も気づいたようだ。

テーブル席に戻ってから、そんなに早く出てくるとは思っていなかったのだろう。

驚くように僕の方を見ていた。

僕とその人の間には、5mほどの距離がある。

 

 

譲るか譲らないか?

 

こういう時、あなただったらどうするだろうか?

実際、今現在並んでいるのは、僕だ。

合理的に考えれば、全くもって譲る必要はない。

 

だが、僕は順番を譲った。

男性とトイレを交互に指さして、「お先にどうぞ」というジェスチャーをした。

男性は少し驚きながらもテーブル席から僕のいる方に移動して、「ありがとうございます」と会釈してトイレに入っていった。

 

さて、なぜ僕がこんな話をしたのかといえば、

「聖人であれ」とか、「親切心が大事」とか、そんなことを伝えたいからではない。

というのも、残念なことに、僕の心に親切心は1ミリもなかった。

 

 

譲らざるを得なかった

 

僕が順番を譲ったのは、ただ一つ。

「譲らざるを得ない」と感じてしまったからだ。

大変に、消極的な理由である。

 

先に入ったお客さん横切った後に僕に向けた男性の驚くような顔を見て、僕は察した。
きっとあの男性は、ここで僕が先に入ったら、「あぁ、並んでおけばよかった」と後悔するだろう。

いや、それどころか、僕が並ぶ前からずっと並んでいて、しかもダムが崩壊するギリギリだったのかもしれない。

 

そんな彼のことを想像すると、僕は「譲らずにはいられなかった」のだ。

決して、「日本人としての謙遜」とか、そんな崇高な理由などないのだ。

 

あぁ、そんな真実かどうかも分からないところにまで意識がいってしまったのが運の尽きだ。

 

「想像力が強い人は、人に優しくなれる」

なんて言葉を聞いたことがある。

その言葉の真実は、

「想像力が強い人は、人に優しくならざるを得ない」

なのかもしれない。

文章を書く時に最初にすべきことは?

新しい文章力の教室

 

ブログを書いたり、本を執筆する上で、良い文章を書けるようになりたい。

そう思って、ナタリーの初代編集長である唐木さんが書いた本「新しい文章力の教室」を読んでいる。

冒頭だけでも、目からウロコの考え方がたくさん書かれている。

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彼らの会社にも、毎年のように「書くことは好きだが、文章力は素人」の新人が多く入ってくる。

彼らに最初に教えるのは、「いきなり書きはじめてはいけない。」ということらしい。

 

 

プラモデルのように文章を作る

 

というのも、文章がまとまらない一番の原因は、「ゴールを決めていないから」だという。

例として、この本ではプラモデルを出している。

 

プラモデルは、なにも粘土の状態から急に「ガンダムを作って」とは言わない。

必ず、パーツと取扱説明書、そして完成イメージの書かれた箱絵があるからこそ、子供でもガンダムを組み立てることができるのだ。


文章においても、それは同じだという。

つまり、まずすべきことは、プラモデルのように、

・何を書きたくて(完成イメージ)、
・そのためにどんな構造で(取扱説明書)、

・どんな情報が必要か(パーツ)、

を決めることであるという。


ということで、これまで文章を気の向くままに書いていた僕も、

今日はまず完成イメージであるテーマを決めて(「文章を書く時に最初にすべきことは?」)、

その上で、構造と、パーツを集めてきた。

 

どうだろうか?

これまでのとりとめのない文章よりもかなり読みやすくなっているのではないだろうか。

 

 

どこでも使えるプラモデルの仕組み

 

そういえば、僕が以前所属していた「すごい会議」も、まさにプラモデルだった。

 

・完成イメージ = 戦略的フォーカス(会社の目標)
・取扱説明書 = 効果的な会議のフォーマット

・パーツ = 事実やデータを集める

 

こうした仕組みがあることによって、

・会議や意思決定で迷う頻度と時間が少なくなる

・このやり方に乗っ取れば、誰でもある程度高いクオリティで会議やマネジメントができる

 

以前にも共有したが、成果を出す上でのポイントは、

「何を意思決定したか」よりも、「どれだけ意思決定したか」だ。
そのためにも、1日の行動量、意思決定量を多くすることが重要で、

つまり迷う回数を減らしたら、自ずと行動量は増える。


誰でも、一定のクオリティで、迷いを減らすことができる、という「プラモデルの仕組み」は、ライターであっても会議であっても、かなり効果的なのだろう。

逆にいえば、どんなものにも、この「プラモデルの仕組み」で、

・完成イメージ

・取扱説明書

・パーツ

を用意すれば、成果の出る可能性が上がるかもしれない。

チャンスデー

エネルギーの上がらない日


全然エネルギーが上がらない日がある。

多くの場合、「厄日」と呼ばれる日だ。

僕はこういう日をチャンスデーと呼ぶ。


人生には必ず波がある。

常にいい状態があるとは限らない。

あらゆるものは栄枯盛衰を繰り返し、少しずつ進化をしていく。

自分自身もその波の中にいるだけだと、改めて理解することが肝要だ。

 

 

過剰に対応する

 

チャンスデーには2つの対処法がある。

一つは、多少のざらつきにめちゃめちゃ過剰に対応すること。

もう一つは、いつもと違うことを極端にやってみることだ。


多少のざらつきにもめちゃめちゃ過剰に対応することは、自分を危険から守ることにつながる。

例えば、電車に乗るときに、ちょっと酔っ払った、タチの悪そうなオジさんと同じ車両に乗ったとする。

普段だったら、自分に害がない限りは無視してその場にいる。


チャンスデーでは違う。

すぐに線路を移動するか、その電車には乗らないようにする。


チャンスデーには、そのおじさんが自分に絡んでくる可能性が普段よりも上がっている(気がする)

また、そんな場面に出くわした時の心が負うマイナスエネルギーが普段より大きい。


自分の心の反応(特に負の反応)に過剰に対処しなければ、何かきっと良くないことが起こる。

そう考えるようにしている。運が悪い日なのだから、当然だ。

 

何かビジネスやサービスを勧められた時にも、少しでも気になることがあれば、一旦断る。

そのサービスがどうか、というよりは、自分のエネルギーが上がっていない。

それは、サービスの良し悪しがどうであっても上手くいかない。

 

 

いつもと違うこと


その上で、もう一つは、いつもと違うことを極端にやってみることだ。


こういう時は、普段通りの行動がするのがダメなので、普段は絶対に選択しないアクションを選んでみる。

普通だったら絶対に行かないところに行ってみるのも、ありだ。


普段と違う行動をとると、驚きの出来事があったり、新しい出会いがあったりする。

だから、僕はチャンスデーと呼んでいる。


せっかくの「厄日」だ。

普段通りの行動は裏目裏目

こういう日を生かすも殺すも、自分の捉え方次第なのだと思う。

まがいものに本物であれ

マイノリティリポート

 

久々に映画を見ようと思って、

ダウンロードしてから3か月くらい観れていなかった「マイノリティリポート」を見た。
ティーブンスピルバーグ監督のSF作品だ。

 

近未来の警察官の主人公が、犯罪予知システムを使って犯罪が起こる前に犯人を捕まえるのだが、

その犯罪予知システムが主人公を犯人だと予知したことからてんやわんやする作品だ。


2002年にとられた作品なので昔の映画だと思ってバカにしていたが、かなりハマった。

水面を走る車や、眼球認識などを行う未来のSF作品でありながら、
作品の大部分で触れていくのは、人間の内面の話だ。


扱うのは、govtech。
政府×テクノロジーになると、人々はテクノロジーに完璧さを求める。
犯罪が起こる前に犯罪を食い止められるこの仕組みはかなり画期的だが、そこに冤罪は決して許されないのだ。

 

 

完璧さという幻想

 

以前、松潤主演の「99.9%」というドラマにもどハマりした。

日本で検事が起訴した事件の99.9%はほぼ間違いなく有罪になる。

その残り0.1%を探して、被告人を無罪にするために松潤が奮闘するドラマだった。

 

そのドラマを見たときにも思ったが、

人間の手や人間の思考が介在する以上、そこに「完璧」などという言葉は似合わないのである。

 

ただし、僕らは完璧が好きだ。

そして、テクノロジーやシステムに完璧さを求めている。

東日本大震災の時も、東電と原子力発電所のシステムに完璧を求めたからこそ、気づくのに遅れた。

 

マイノリティリポートで描くのもまさにそこだった。

僕らは完璧さという幻想に囚われている。

そして、政府はそれに応えようと、完璧さをどうにかして守ろうとする。

 

 

まがいものに本物であれ

 

この世に完璧なものはない。

だから、「完璧」であろうとすると、疲れたり逆に欠陥が目立ったりする。

完璧さを取り繕うために、嘘とごまかしで塗り固めなくてはならない。

マイノリティリポートにおけるその結果は、全てのシステムの破滅だった。

 

僕が好きな言葉は、

「まがいものに本物であれ」

という言葉だ。

 

人間も、システムも、

時に間違えたり、上手くいかないことがあるという前提のもとで行動すること。

日本の大企業だって、Google検索エンジンだって、政府だって、

完璧を気取ると、いつか破滅するかもしれない。

そう思っておけば、少なくとも完璧を信じている人よりも、いい行動ができると思う。

いい文章が書ける人はいらない

文化を基に翻訳する

 

今、進めているプロジェクトの一つに、「桃太郎翻訳プロジェクト」がある。

日本で誰もが知る桃太郎の物語を、世界中のあらゆる言語で、文化的背景も踏まえながら、翻訳するというプロジェクトだ。

今日はその進展のために、翻訳家のOさんと打ち合わせをしている時の話。

 

Oさん(以下: O)「ただ翻訳しても意味ないんですよね。」

僕「どういうことですか?」

O「文化を踏まえると、桃太郎の物語そのものが成り立たない言語や文化があってもおかしくないと思うのです。」

 

なるほど、と思った。

たしかに、桃太郎は、日本の文化のもとで作られたものだ。

言語も日本語で書かれている。

 

例えば、インドでは大きな川のことを「ガンジス川」だと捉えるらしい。

ガンジス川は死体を流すために使われていた川だそうだ。

死体が流れてくる川から、桃が流れてきたら、インドの文化ではどう捉えるのだろうか?

そういう文化も踏まえて、初めてこのプロジェクトは面白いものになる。

 

いい文章が書ける人はいらない

 

文化を理解していないと、期待したものにはならない。

 

ただ翻訳を出来る人は、世の中にごまんといるという。

本当に優れた翻訳家や、指名で受ける翻訳家は、相手の背景をわかって翻訳することが出来る。

 

背景を知ることが求められるのは、翻訳者だけではない。

ライターでも求められている。

 

今日、ある有名な会社のインタビュアー兼ライターの人にお会いした。

その人が言うには、

「ライティングを1記事10万円くらいでやってくれる人はいるんですけど、求めた記事にならないんですよね。

なんか、ただ書いてるだけ、って感じで。」

それを聞いて、改めて思った。

もう、いい文章が書ける人は、いらないのだ。


その会社の持ち合わせる文化や価値観に基づいて翻訳して欲しいのだが、その期待に答えられるライターはなかなかいない。

 

そのうち、ただ翻訳できる翻訳家、ただいい記事の書けるライターはAIに取って代わられるだろう。
今後は、背景を理解できる翻訳者、ライターに仕事が集まるだろう。

 

そして、さらに仕事が集まるのは、背景も理解して、さらに相手に気づきの与えられる翻訳家、ライターだ。

そういう人たちには、インタビューの依頼が殺到するに違いない。

 

もし翻訳家やライターで食べていきたければ、背景の文化を理解して翻訳・ライティングできるスキルが確実に求められる。